前回の投稿に引き続き、大東流合気武道の紹介三部作の第二弾。
徳川家康と大東流合気武道との関係が明らかになります。
以下、原文のまま、お楽しみください。
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徳川幕府となると家康は武田信玄の政治、軍事、経済、各方面の業績を幕府政策に取り入れ、大いに成果をあげた。信玄の旧臣である小幡景憲の武田流(甲州流)軍学を官許の学として公認している。
家康の孫で秀忠の第四子、幼名幸松丸は武田信玄の四女武田見性院の養子となり甲松丸と名を改め武芸に励み、後に信玄の旧臣で家康の妹を妻にした保科正直の子正光の養子となり、保科正之と改名した。正之は寛永二十八年八月八日会津藩主(藩祖)として会津入城し、数々の善政を行い名君とうたわれたが、正之は国次開基西光寺を会津三十三番巡礼止所に定め、先陣争いの名馬(生喰)を源頼朝に献上したという小池の地を源家由来の地とし、御の字を賜り御池としている。
慶安四年、正之は三代将軍家光の遺言により、四代将軍家綱十一才の後見役および将軍補佐役を託せられた。以来江戸城にて大政輔弼の任二十余年、その間、殿中の平和を保つため甲斐武田国次より会津に伝来された大東流を殿中護身武芸(御式内)に改定して老中、重臣、奥勤者に指導した。
さらに正之は将軍家指南役小野忠常より小野派一刀流の秘奥を学び、小野派一刀流、御式内の二流が会津歴代藩主に継承された。
(狩野探幽筆、土津神社蔵・福島県立博物館寄託)
御式内指導の任は三河西郷家を祖にもつ主席家老西郷家があった。
三河守護代岡崎城主西郷稠頼の流れ西郷家は、家康の側室西郷局が二代将軍秀忠と忠吉を生んだ家系である。西郷家は摂政・関白となった藤原道隆に端を発しており、家康が征夷大将軍(従一位)になったのも一つは西郷局のこの出自の為であると言われている。
西郷局は天正十七年没し寛永五年家康と同じ従一位を贈られている。西郷家は徳川将軍家の外戚に当たる。西郷屋敷は三十余の部屋があったと伝えられ「御式内」も西郷邸で門外不出の秘伝として重臣達に伝承されていったのである。
(会津観光ナビHPより引用)
一方、武田家は国次より主税、信次と続き、四代を経て、惣右エ門と続く。
惣右エ門は京都において、安部清明の後(上が衣で下が向の漢字)、土御門家について陰陽道を修行し免許を受け、宮中より内匠頭を賜り武田内匠頭惣右エ門となって、会津御池(御伊勢宮宮司)に帰りては、神道、陰陽道、大東流の達人として知られ、各地を巡教し会津家老西郷頼母にも、これ等秘伝を授けている。
(会津武家屋敷蔵)
惣右エ門の長男惣吉は若い頃相撲、剣術、棒(八尺棒)術、大東流を修行し、さらに藩より許されて、若者二人を連れて各地を武者修行し豪強を轟かせ、帰藩するや会津力士界の大関となり、藩主より白糸関の四股名を賜った。会津戦争では力手組長となり砲兵隊に参加、京蛤御門の戦い、長州征伐二度、鳥羽伏見の戦い、白河口の戦いに参戦し勇名をあげている。
また、江戸の大関大錦と水入りの相撲を演じるなど、豪勇な逸話が数多く残されている。
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徳川家康の直孫から引き継がれていたんですね!
会津の由緒正しい武術だったとは。
長州出身の私からすると、ちょっと申し訳無い気持ちとなります。(笑)
長州征伐とかの単語も出てくるし。
・・・まぁ、いいや。
次回は、遂に、勇名な武田惣角先生が出てきます。
大東流合気武道について(1)
https://pelab-budo.blogspot.com/2020/12/blog-post_50.html
大東流合気武道について(2)
https://pelab-budo.blogspot.com/2020/12/blog-post_42.html
大東流合気武道について(3)
https://pelab-budo.blogspot.com/2020/12/blog-post_42.html
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